統計トリックと論理トリック

学校で習う「英数国理社」の中で、良く「数学は解がひとつ」と言われます(特に国語や社会といった科目と比較されて)。英語は語学なので脇に置くとすると、「解がひとつ派(理数)」と「解が複数派(国社)」に分かれるようですね。前者は「定理・公理・法則・公式に従えばおのずと同じ結論が導かれる」ので客観的・系統的(システマティック)な雰囲気を持つ傾向があり、後者は「仮説、前提条件、考え方、印象、感じ方などで結論がブレる」という主観的・俗人的(スペシフィック)な部分が多分にあります。

いまさらこんなこと確認するまでもないですが、改めて列挙しておきます。

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統計は数学の一派に属しているので、どちらかと言えば「客観的・系統的な雰囲気を持つアイテム」です。ですから妙な説得力がある。

数年前のZ会のCMで
「東大合格2人に1人」
というフレーズがありました(私は良く覚えています)。これは言うまでもありませんが「東大合格者の50%がZ会の会員だよ」という意味ですね。情報としてはそれ以上でも以下でもありません。

でも、この情報を受け取った人の印象はどうでしょう?変な話「加入したら東大合格の可能性が50%になる」ような錯覚も生まれませんか?

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ここで論点をよりハッキリさせ、話を盛り上げるため、ある架空のA会について
「東大合格者の100%がA会の会員だった」
ということにしましょう。100%ですから合格者全員というとこですね。そうすると、情報を受信した人の印象としてはさきほどよりももっともっと「おおっ!すげー」ということになり、加入動機に勢いがつきそうです。変な話、「加入したら東大合格が100%保証されるような錯覚も生まれるかもしれません。

でも実はこれだけでは「なんともいえない」のです。ここで次のような事実が追加されたらどうでしょう、
「東大不合格者の100%がA会の会員だった」
つまり「落ちた人も全員が加入者だった」ということは東大受験者全員が100%A会の会員だったというわけです。これでは「A会の会員」であることが東大合格のための決定要因かどうか分からないというもの。

少なくとも東大合格の説明力は「ない」(正確には「ある」とはいい難い)ということになります。

ここで申し上げたかったのは「東大不合格者に関する情報がない」以上「東大合格者の何%がA会の会員」という情報が与えられても、A会の決定力を測る決め手にはならないということでした。

変な話、「東大合格者の50%がA会の会員」であると同時に「東大不合格者の80%がA会の会員」だとしたら、どう考えるべきなのでしょう?「不合格者の方が会員率が高い」わけですね。

最終的には「合格者」と「不合格者」の両者間の「会員率のギャップ」がモノを言うことになるのです。両者でギャップがほとんどゼロであれば「インパクトほとんどなし」、ギャップは大きくプラスなら「会員になることでメリットがありそう」、マイナスなら「会員にならないメリットがありそうだ」、といった“味わい方”になります。


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別の見方をします。

一般論として、
「AならばBである」という命題に対して、
「BならばAである」を逆命題、
「AでなければBでない」を裏命題、
「BでなければAでない」を対偶命題、
などと称します。

ここで、Aに「A会会員」、Bに「東大合格」を当てはめると、
「A会会員ならば東大合格である」
という命題が出来上がります。

この命題が正しいのか?を確かめる手段は、この命題の対偶命題を証明すればよいのですが、対偶命題は
「東大合格でなければA会会員でない」
になります。

つまり、「東大合格でない」方々の振る舞いに関する情報(A会会員であるかどうか)が必要なんですね。「東大合格でないがA会会員である」なんて事実があれば、命題は正しくないことになります。

「AならばBである」という命題について、その「逆・裏・対偶」に関する明確な議論が不在のまま、妙なロジックを持ち出して正当性を強化するような仕組みを散見しますが。

こういった「論理トリック」も世の中でしばしば登場しますね。数学基礎論という分野の範疇です。

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解が主観的・俗人的なものに依存して「解が複数ある」社会科の領域に、客観的・系統的な雰囲気を持つ統計や数学が入り込んで印象の操作・誘導に使われることがありますのでご注意ください。
(なおこの本文はZ会を誹謗・中傷することが目的ではありません。私自身もかつて会員であったことがありますし、その効用・効能の高さは理解しております。飽くまで身近な事例として取り上げただけです。)