壁と橋

十年以上前に「バカの壁」という本がベストセラーとなった。「バカ」とは"人間どうしが互いに理解できない、疎通できない局面"を表す。「壁」とは“コミュニケーションの障壁”のことだ。つまり、“互いにコミュニケーションができない何らかの要因”がバカの壁である。

この場合、「バカ」は特定の人物の知的特徴量を意味するのではなく、ちょうど喧嘩のように双方にとってお互いが敵どうしになるといった状態を意味する。したがって、バカの壁が成立している間柄では、互いに相手方が「バカ」に映ることとなる。この場合、どちらが本当のバカなのかを問うことはあまり意味がなく、喧嘩両成敗があるように「バカの壁両成敗」に従う。つまり、両者とも等しくバカが成立しているわけだ。

バカの壁が「コミュ障壁」の全体を示すとするならば、もう少し細かい要因分解が可能になろう。例えば、日本語と英語といった「言葉の壁」がバカの壁の一翼を担っているとか、「経験の壁」が相互理解の妨げになっているといった具合にだ。他にも、文化、性差、知識、スキル、好き嫌い、などもバカの壁の成分になろう。

そうした、壁に対して「ブリッジ(橋)」という概念がある。これは、相互理解の橋渡しを意味する。上手な「補助線」が、理解の助けになることがある。しばしば「うまい譬え(アナロジー、メタファー、レトリック)」が補助になることがある。或いは、具体例を示すことでイメージが掴めたりすることもあろう。これらはブリッジになる。

ヒトのコミュ力は認知的、感情的、言語的に規定されているので、そうしたパーテイションをブリッジで補っていくことになる。現在、AI翻訳などが登場しているが、これは言語の壁を補うブリッジなろう。今後、AIが様々な分野でのブリッジになることが期待される。

もやしとビッドコイン

「もやし」の値段は下がり続け、「ビッドコイン」の値段は下がり続ける、この現象は何によって説明され、どのような解釈が妥当なのだろうか?

「もやし」に似た性質のモノは他にもある。例えば、卵、牛乳、ティッシュペーパー、豆腐、納豆といった食材だ。これらはコンシューマー・ステープル(必需消費財)と呼ばれるが、これらは中でも「とりわけ差別化の難しい(差別化を図ろうとしても消費者に定着しない、受け入れてもらいにくい)」部類のモノだ。ありきたりといえばありきたりの食材で、入手がさほど困難でもない。これらを「もやし類」と呼ぶことにする。

とはいえ、「もやし類」にも材料費や人件費など生産コストがかかる。一方、小売販売の現場ではそれらの生産コストを反映するどころか、生産コストを著しく下回る価格でしばしば販売される。更には、店頭での「目玉品」「出血品」として扱われることも多いようだ。

こうした現象は、生産者の問題というより、小売業者の問題のように思える。小売業者間の競争が過当気味だと、常に高い集客力を維持するような販売戦略を練らなくてはいけない。そして「もやし類」はそのための宣伝広告の役目を担うことがある。

つまり、生産コストを下回る「目玉価格」のための原資は小売業者にとって「宣伝広告費」なのである。そう考えると、小売業者はもやし類の生産者に「宣伝広告費」を払っていると理解できる。

その上、小売販売の過当競争が恒常的な集客チキンゲームに繋がっているため、「もやし類」の店頭価格が一向に上昇しない。むしろ、小売販売での消耗合戦の犠牲、もしくはしわ寄せの象徴なのがもやしなのだ。

「ビッドコイン」はそもそも消費財ではない。貨幣に似た性格のモノだ。その意味で貴金属などとの類似性が支持される。貴金属の場合、希少性が大事になってくるが、ビッドコインにも希少性があるようだ(いまのところ)。それ以上に、ビッドコインには様々なギミックが存在する。ギミックとしては、デジタル通貨、匿名での越境送金、中央銀行のマネーのような緩和措置がないといったところか。

ギミックの存在はそのモノの価値大きく扇動することがある。ビッドコイン以外では、かつてのインターネットやゲノム解析、現在ならビックデータ、AIなどだろうか。これらを「ギミック類」と呼ぶとすると、ギミック類では「いつも、必ず」カスケードが起きるわけではない。少なくともゲノムの場合は「特許」という理解しやすいギミックがあった。AIでは「生産性革命」という心理的フックがある。

つまり、フックやギミックの意味合いが広く周知に理解されたり重視されると人気化する。そして、ギミックが人気とリンクすると耳目を集め、耳目が耳目を呼ぶ(今回のAIブームでは「アルファGO」がトリガーのように感じる)。

「もやし類」には残念ながらギミックがない。「食べて終わり」「消費して終わり」だ。一方、AIやビックデーターには目下次々とギミックが創造されつつある。ギミックの分だけ、将来への夢のような期待のようなものが一種のレバレッジとして働く。それらは幻想と化すまで膨らみ続けるのだ。

#橋下 徹氏 「ボケ」をかます

ニュースによれば、前大阪市長橋下徹弁護が吠えたようだ。

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201710270000196.html
http://www.sankei.com/politics/news/171025/plt1710250075-n1.html



ツイッター上で党代表選が必要と訴えた日本維新の会丸山穂高氏に対する「ボケ」を大量連発した前大阪市長橋下徹弁護士だが、お互いの「言葉遣い」の点で両者どちらに非があるのかと問われれば、同じ土俵でがっぷりとののしりあった感があるので、もはや喧嘩両成敗の世界だろう。

政治の世界は、自分の秘書に対して「ハゲ」だの、自分が法律顧問を務めていた党の若手に対して「ボケ」だの、多様な「二人称」の使用が可能な素晴らしく表現の自由が守られている世界である様子が覗える。

但し、目上というか「相対的に立場が強い(と思われる)人間」は目下に対して二人称に少々気を配ってもよさそうなものだ。「おい」「こら」「ぼけ」「はげ」「でぶ」などを二人称に転用すると呼ばれた相手によっては悪意を感じて傷つくだろう。そうしたことに疎い人間だと発言者自身が思われることは、パワハラとかモラハラなどの問題以前に、発言者の「品格コード」に引っかかりそうだからである(炎上が狙いなら話は別なのだが)。

そして品格コード問題で起きる世間的ダメージは総じて目上の立場の方が大きいような気がする。

橋下氏は「ボケ」連発のあと、「嫌な奴とは仕事をしない主義」でることをそうだ。これまた思いっきり「排除主義」だ。希望の党と仲が良いだけのことはある。

#行動経済学セイラー教授 ドラフトでは「外れ1位」に妙味あり

2017年のノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学リチャード・セイラー教授は米NFLでのドラフト指名権の非合理性を研究している。彼の著書「行動経済学の逆襲)によれば、米NFLではドラフト上位指名権を複数の下位指名権と交換するといったように指名権をチーム間で取引できる。そうした取引データを基にしてドラフト指名権の順位相対価値を調べたところ、「ドラフト一巡目の最初(指名順位1番目)」の指名権の価値は「ドラフト二巡目の最初(指名順位33番目)」の約五倍だったという。森永製菓のエンゼルカードで「金なら1枚、銀なら5枚」というフレーズが有名だが、まさにそれだ。一巡目の1回分で、二巡目の5回分が購入できる寸法である。

一方、その後の選手のパフォーマンスを考慮した「余剰価値の順位相対価値」を調べると、ドラフト一巡目の上位の選手よりドラフト二巡目の上位の選手の余剰価値がずっと高かった。つまり、ドラフト二巡目という事実上の「外れドラフト1位」の方が費用対効果でみて最もお買い得だったのである。

ドラフト一巡目の上位指名権が高く評価されすぎている理由について、セイラー教授は
1.自信過剰(「俺の目に狂いはない」という判断の過信)
2.極端な評価(何かにつけて「怪物」「天才」といった"比類なき人材"に好んで仕立て上げる)
3.勝者の呪い(既に株価が過大評価されている現物株のコールオプションを、更に割高なプレミアムで買う、「二階建てミスプライス」)
4.満場一致での合意の錯覚(特定の選手に惚れこむと他のチームも同じように評価していると考えていると思い込む)
5.朝三暮四(「明日の育成より、今日の即戦力」を選好したり、「目の前の勝利」を最優先しすぎる近視眼)

を挙げている。

こうした非合理性は、「ハウスマネー」が豊富になると生じやすいという。懐が潤うとオーナー自らが「大物選手」と獲得するために動くからだ。このことをセイラー教授は「能無しプリンシパル問題」と呼んでいる。

ところで、ドラフト指名権での非合理性に似た現象は企業買収で生じやすいかもしれない。「ハウスマネー」が豊富な会社による“魅力的(に思える)事業”への買収は、ちょうど「ドラフト一巡目上位指名権」の獲得のように、高くつくリスクがあるように思える。特に争奪戦になるとかなり危険な買収合戦になる。バスに「乗り遅れまい」とする姿勢が判断を狂わせるからだ。

一方、「外れ1位(ドラフト二巡目上位指名権)」のような買収もあるようだ。それは大手が再編する際に「独占禁止法への対応で売り出される事業」を獲得する戦略だ。「落ち穂拾い」買収と呼んだりするそうだが、そうした外れ1位への投資とは「残り物には福がある」の格言が示唆するような利点があるのだろう。

#小池百合子 「鉄の天井」よりも「墓穴」

希望の党代表の小池百合子氏による気になる発言が目についた。2017年10月24日の日経朝刊4面で小池氏は(女性の進出を阻む)「鉄の天井があった」との見解を述べている。

実際に彼女はそう感じざるを得ないような「自分の思うに任せない場面」等に遭遇したため、そういう"見えないバリアー"の存在を認識したのだろう。
ただ、鉄天井発言をした様子を傍で見ていて、これは少々片腹痛いと感じた。それどころかちょっとした炎上ものだろう。

個人が「ガラスの天井」のような外部障壁による疎外感を抱こうが抱くまいが「カラスの勝手」だ。だが、カラスの勝手を意見表明するとなると勝手は異なる。このタイミングでは敗戦の「いいわけ」のような一種の弁明と受け止められる可能性があろう。小池氏は選挙期間中が棘のある「排除発言」で"伝え方"を見誤った小池氏だが、選挙後になって「鉄の天井発言」で"伝わり方"でも物議を醸しだしそうだ。すなわち、鉄天井発言が下手すると「負け惜しみ」として伝わるリスクだ。

「党勢の失速」と「選挙戦の敗北」は排除発言による自滅が主原因だと有権者は感じていよう。排除発言の結果、枝野氏による立憲民主党という、"爽やかで男気のあるイメージで売る「第二希望の党」のような存在"を増長させた(今や、希望の党の真のライバルは党キャラの似る立憲民主党だ)からである。

少なくとも、小池氏自身の"落ち度"や"至らなさ"といった内因が顧みられるべきであろう時に、「鉄の天井」という外因に言及すると、周囲にイソップの"すっぱいブドウ"を彷彿とさせる。

自滅であることを棚に上げて「失敗したのは自分のせいではなく周りのせい」と解釈されうるリスクのある「鉄の天井」発言を、選挙直後のようなナーバスな時期にしてしまうと、かえって火に油だし、同時に恥の上塗りだ。

「鉄の天井」よりも「墓穴」に気を配らないと、小池氏の復活は遠のくばかりだ。

#希望の党 「排女」小池百合子の落日

【与党圧勝】
第48回衆議院選挙(定数465、2017年10月22日投票)の結果が揃った。自公で312議席の獲得と3分の2(310議席)を上回る圧勝となったわけだが、自民党は単独でも公示前の283議席から1つ伸ばして284議席を獲得。分母である定数が前回比で10減だった分だけ「自民のシェア」が大幅アップとなった。一方、台風の目と称させた小池百合子氏率いる希望の党は公示前57議席から49議席へ現象。また枝野氏率いる立憲民主党は公示前の15議席から50議席へと3倍強の増加となった。このように与野党それぞ明暗は割れたが、概ね下馬評通りの選挙戦結果であり良くも悪くもサプライズはあまりない印象であったにも関わらず、投票日の翌23日の東京株式市場で日経平均が200円以上もアップし、15連騰を記録したことは意外だった。

【野党側のエラー】
この選挙の結果に関して有識者による原因究明によれば、「与党側の作戦勝ち」よりも「野党側のエラー(敵失)」にウエイトがあるように語られているようだ、とりわけ民進党希望の党への合流時に小池希望の党代表が「排除」の発言をしたことが仇となったとの指摘が多い。加えて、小池政党のシンボルでもある都民ファーストの会から音喜多氏ら2名の造反者が出たことも「ノイズ」となった。こうした小池氏サイドでのエラー&ノイズは与党側に有利に働いたようだ。

小池氏による「排除発言後」、カウンターパーティとして枝野氏が立憲民主党を旗揚げしたことも逆風となった。これまでは小池氏が一種の「判官びいきの追い風」にあやかってきたのだが、今回このひいき風は立憲民主党になびいたようだった。すなわち、かつての小池氏の絶妙な「ポジショニング」や「風を味方につけるチカラ」といった"お株"を結果的として枝野氏に全部奪われた格好となってしまったことが、彼女の致命的なミスだったと感じる。排除発言の後、小池氏には「高飛車な印象」が残っただけだった。

民進党希望の党との公武合体運動が取り沙汰された時点で、もし小池氏がその合流に関するインタビューで「排除」誘導尋問に引っかからなかったにとしても、今度は身内の造反というノイズの悪影響で、最後は「目についた しかしやがては 鼻につく」の流れは変わらなかったように思える。一旦「鼻についてしまう」とその"我圧の強さ"の払拭が困難になるのだが、その下地は自らが率いる都民ファースト内で醸成されていたようだった(まだ「小池氏の"高飛車臭"」は都民ファ内にまだ残留しているだろう)。これに対処できなかった小池氏は誠に迂闊であり、「排除」の発言とともに強圧的な印象は内外から周辺に漏洩し、打撃となった。

尤も、この手の粗捜しは後付けでいくらでもできるので結果論的後講釈になりがちなのでこの程度にしておく。

【オーナー政党の宿命】
では、今後どうしたらよいか?仮に小池氏に自分がしくじってしまったという自覚があるならば「しくじり先生劇場」にでも話をもっていってお祓いするしかない(旧民進党には「それ」がなかったので長期間ぐだぐだしたように感じる)。立憲民主党も枝野代表の好感度だけで「保っている」だけであり、党代表である「オーナーの好感度」に依存する体質である点は希望の党とさしたる差はない。

こうしたオーナー政党では党代表の好感度以上に「共感を得られるタレント人材」、自民党で言えば「小泉進次郎氏のような存在」が必要不可欠だろう(若狭氏では迫力に欠けたようだった)。同時に、オーナー以上に周囲からの"共感値"や"好感度"のアップに寄与できるタレントを自由に泳がせられることができる"柔軟な姿勢"もオーナーの力量にひとつだ。都民ファを辞めた音喜多氏には小泉進次郎氏に似たタレント性を少し感じたが、残念ながら造反してしまった、これは大きな小池氏にとって機会損失になるだろうと感じる。"箸の上げ下ろし"や"おかずを食べる順番決め"まで自分がいちいち関わらないと気が済まないという"超潔癖症オーナー"の下では、元気はいいが少々生意気で跳ねっ返り気質の若武者は去ってしまう。オーナーが少々大目に見る柔軟性も組織の飛躍には必須だ。。"しきたり満載"の田舎から若手が去るように硬直的な組織は若者には息苦しく感じる。また若手の不在は組織の停滞を産み、組織の躍動や成長に繋がりにくい。地方でのシャッター通りのようにならないよう、組織のオーナーは「剛柔使い分け」が肝要だ。

【たられば】
ここで反実仮想的な話、いわゆる「たらればの話」を勘案してみたい。個人的に「もしあのとき排除しなかったら、どうなっただろうか?」ということに興味がわく。立憲民主党は誕生しなかった点はプラス寄与だが、マイナス寄与として共産党などとの共闘は望めなかっただろうが、差し引きプラスか?

もし希望の党民進党とが排除なく「公武合体」を果たし、「晴れて小池代表が国政選挙に出る」となった場合でも、今度は「都政はなおざりになるのではないか?」とった批判はいつまでもしつこく付きまとっただろう。小泉進次郎氏曰く「小池氏のジレンマ」(進むも地獄、引くも地獄)の根は深かった。限られた戦力で最初から都政と国政の二面攻撃を強いられた点で、構造的に難しい戦いだった点は否めない。そんなやりにくい環境で小池氏はそれなりに善戦したと思う。

【再チャレンジ】
安倍自民党総裁も第一次政権は不本意に終わり、雌伏の時を時を経た後、満を持して再びチャレンジして現在に至るわけである。小池さんにも再チャレンジの機会があっても不思議ではない。彼女の再チャレンジに期待したい。

書評2012年11月

休暇中に読んだ本について備忘録代わりに記しておく。

『入社10年目の羅針盤 岩瀬大輔著』
岩瀬氏はネットライフ生命を創立し、その副社長を務める実業家だ。本の中で彼が以前にコンサルティング会社に勤務していた様子やリップルウッド時代のことが書かれている。彼にも「宮仕え」のころがあったようだ。
もうひとつの著書「入社一年目の教科書」も拝見したが、そこで組織に与えうる新人の有益性として「(組織人と化した先輩諸氏に比べて)先入観のない目線でものごとを見れるし、そうした意見は貴重だ」という鋭い指摘と、「新人を教育することで、実は先輩の教育にもなるのだ」という教育のインタラクション効果を述べていたのが印象的だったので、彼による「10年選手向けの本」にも目を通してみた。

心に残った点は
1.他人の力を借りる(特に上司)
2.「おもてなし」の心意気を忘れずに
3.「人脈」という言葉のいやらしさ(著者はこの語があまり好きではないそうだ)
4.1つの真実・1つの正解があるわけではない
5.仕事をスムーズに進めるためには徹底した情報公開を
6.立場の違いが対立を生むので相手のメガネをかけて世界がどう見えるのか想像してみよう

といった点だ。

1の「他人の力を借りる」は他人に依存するというのではなく、全部が全部自分でまかなえない以上、積極的に外部ソースを活用して、仕事の効率を上げて、てこを効かせるということだそうだ。そうした活動は一種の社内コミュニケーションにも繋がるし、相乗効果を生むとのこと。

2の「おもてなし」とは、例えばメールだけで済ませるのでなく、電話やプリントアウトといった面倒な「ひとてま」をかけることで「相手(顧客や仲間)」に自分のアウトプットを印象付けると同時に単純接触によって好印象も持ってもらうということのようだ。
あるいは、おもてなしというとモノの贈答を連想するが、必ずしも「モノ」を与えるのがおもてなしではなく、人を紹介するなど機会や場の提供でもよいというのが岩瀬氏の持論だ。

3の「人脈」では気の会う相手や波長の合う相手と普通に付き合えばよく、あえて特別に何かするのは下心があってかえっていやらしい、というのが著者の考え。人脈という語感に含まれる「自らのために他人を利用しようと目論むスケベ根性」が嫌いだそうだが、同感だ。

4は実社会において当然といえば当然なのだが、しばしば大学院修士や博士まで進んで「答え用意された演習の世界」をたっぷり満喫してしまった輩に、「AとBでどっちが正しいと思いますか」といった二者択一式単純思考をもつ連中が数多く見受けられる。こうした「高学歴な単細胞」は理系に多いが、実戦においては正直うざいだけだったりする。

5の情報公開が大事な点は認知心理学行動経済学などでも立証済みだ。実験によれば、互いに情報の共有がなされているグループと、互いに断片情報しか与えられていないグループとでは、意思決定の能力に格段の差がでるそうだ。互いに断片情報しか持ち合わせていないと、まるで「ジグソーパズルを解く」ので精一杯になり、前向きなことは何も決められなくなるといったことが報告されている。

6の「他人の立場にたつ」は案外難しい。案外互いにみんながみんな他人の立場に立って考えているつもりだったりするからだ。そうした「他人の立場に立っているという自分勝手な思い込み」をどうやって自覚させて、同時にどうやって除去したらよいのだろうか?うーむ、実に悩ましい。