The Paradoxical Brain (逆説的な脳の話)

The Paradoxical Brain

The Paradoxical Brain

本書は今年(2011年)の7月下旬に発売された「脳」に関する各方面(神経科医はもとより大脳生理学や認知心理学なども)からの専門家を募り、脳について従来の定説とは異なる論旨を一同に集めた本だ。

このParadoxical Brain (パラドキシカル・ブレイン、仮に「逆説的な脳の話」と訳す)を読んでいくうちに、どうやら表題のParadoxical とBrainとのそれぞれが二つの意味を持っているのではないかという思いに至った。
 まず、Brainのひとつ目の意味は、文字通り人の臓器としての「脳」を表す。臓器としての「脳」の機能について、もっと言えば「脳」の基本性能(スペック)や潜在力(ポテンシャル)について、従来考えられていたレベルよりもはるかに優れている部分があったり、逆に事前に想定していたもの比べ明らかに且つ克服しがたい限界も露呈したりと、各分野の専門家のコンセンサスやパラダイムを裏切るような論説が証拠と伴に語られている。すなわち、従来の定説とは逆説的な意見を各分野から広く収集したという編者の思いが題名に表れているようだ。「パラドキシカル」とは脳にまつわるパラダイム・シフトを促したい編者の強い願いそのものなのだろう。
 ここで「各分野」とは、神経科学をはじめ、神経心理学神経科医、精神科医臨床医学、児童発達心理学認知心理学などである。そして、それらの分野の専門家が定説を覆す見解を述べるわけだが、ここでBrainのふたつ目の意味が登場する。専門家はしばしばカタカナ英語でブレーンと称されるが、これはいわゆる「頭脳集団」の意味だ。そうすると本書の題名は「頭脳集団による逆説の祭典」或いは「逆説を述べる頭脳集団」のようなニュアンスにも取れる。私の想像なのだが、彼らはカウンターオピニオンを自分たちの手で世に出し、天動説に抗う地動説のような存在に自らを見立てているようなのだ。
 では、Paradoxicalにはどんな意味が込められているのか?ひとつは先ほどから述べているような現在のコンセンサスに対する「逆説」の意味だ。さてもうひとつは?これも私の勝手な想像であるが、主流といわれる意見も最初は「Paradoxical=例外的意見・日陰者の意見」だった。例えば、宇宙膨張論然り、相対性理論然り、世に出たときはちょうどいまの我々のように逆説的な意見だった。ということは、我々の意見が将来主流になる可能性は大いにある。その上、そのときに新たに登場する(であろう)新たなるParadoxicalな意見によって、その頃主流となった我々の意見も覆される運命にあるのだ。つまり、Paradoxicalの本質とは“「逆説に継ぐ逆説の登場によって進化は促される」いわば「発展の源」なのだ”ということも暗示しているように思える。

本書は全24章を用いて脳をテーマに“直感と相いれない、経験にそぐわない、確立された知見と対立する説”を取り上げているわけであるが、脳がテーマだからといって全章で「脳チャート」(温泉旅館の更衣室で見かける「足つぼチャート」の脳内版のような図)や磁気やX線による「脳スキャン」が必ず登場するわけではない(ただし温泉旅館では「足つぼチャート」は必ず登場する。その信憑性は疑わしいのにも関わらずだ。)。例えば、4〜9章では脳のチャートもスキャンも登場しない。
 また、“従来の定説とは逆をいく”というよりも、“いままで思いも付かなかった”とか“今回初めて判明した”といった非在来説や新規説も含まれている。

例えば、4章の神経リハビリテーションの章では「ファントム・ペイン」(幻肢痛)という「切断などによって喪失したはずの四肢(手足など)について、まるでそれがあたかもいまだに存在するかのように、なくしたはずの手足部位の感覚や痛みを脳がはっきり感じる現象」などが記載されている。

また、脳はダメージや損傷によってその機能を一方的に失うだけではなく、失った分を別の形で取り返すそうなのだ。

2章「知覚機能喪失の話」は私にとってなじみの薄いテーマであるが、人間は視聴覚の機能を喪失すると、残った正常に機能する五感が研ぎ澄まされるという話。実験によれば、視覚障害の方の聴力は通常の人よりも高い上に、視覚に障害を被ってから聴力機能はアップするという。逆に聴力を喪失すると視覚能力(表情の見極めなど)が強化されるそうだ。脳はその部位にダメージを受けると関連する能力や機能を一方的に喪失するだけではなく、何らかの「埋め合わせ的リカバー」をするというのだ。これは冒頭に記述した、「脳には従来考えられていたレベルよりもはるかに優れている部分がある」ということと関係する箇所だ。

6章は乳幼児の言語・音声に対する知覚発達は従来よりも至極早い段階から始まっていて、生後5〜6ヵ月でその音声やリズムが「ネイティブものなのか非ネイティブものなのか」を識別するらしい。つまり、リズムとか発音体系といった音楽的なものは生後間もなくに刷り込まれるというのだ。どうやら、ブラジル人はサンバのリズムを生後5〜6ヵ月ですでに刷り込まれてしまっているため、その躍動的リズム感は生来的なものに極めて近く、日本人に真似できないのだろう。妙に納得した。

7章では「加齢と伴に脳機能は単調減衰する」という定説を一部覆すような話が書かれている、特に対人・対面スキルは若さよりも年功がものを言うそうだ。8章は「記憶と学習」の話題で9章は「専門家」について。ここら辺り、「知識の呪い」だの「エキスパート・エラー」だの私自身関心のある認知心理学の分野であり、正直面白かった。

更に、10章「パーキンソン病」や11章「てんかん」、14章は「神経免疫学」(neuroepidemiology)」(喫煙者は脳の病気、例えばパーキンソン病にかかりにくいといった話)、更に22章は「海馬(脳内の特定部位)について」、23章は「神経精神薬理学(neuropsychopharmacology)」(神経伝達物質の話が登場、それらを用いたADHDの治療法など)といったように後半になるにつれ医学的で且つマニアックになる。

安易に誰にでも「どうぞ」と勧められる内容ではないが、研究機関で働いている方には刺激になると思われ、オススメだ。