思考停止を喚起・蔓延させるフレーズ(2)

会話が不毛になり互いに思考停止に陥るフレーズについて。

1.絶対○○だな!?(例、絶対大丈夫だな!?絶対上手くいくな!?)という過剰な「念押し」

2.もし上手く行かなかったらどうする?という、「やる前から失敗した場合を想定するとは何事だ!」という切迫圧力

上記のような発言は、いずれも専横で自意識過剰かつセルフ・インポータント(自分が一番大事)で身勝手、負けず嫌いで意固地なくせに、そして何か問題が起きると「知らぬ顔の半兵衛」をしれっと貫き通す責任回避タイプに多い。

こうした気質の上司が部下にしばしば過剰な念押しや切迫圧力をかけることが多いようだ。そして、部下の意見が気に食わないと1のせりふが登場し、自分の意見を通そうとすると2のせりふが登場する。いずれも自己正当化と自己最適が最大の目的であり、全体最適ではないのでたちが悪い。

小さな成功体験

何事でも成就するには「地道に小さな成功体験を重ねていこう」という意見があった。そう言われれば90年代から00年代を経て10年代に至るまで日本ではビジネスでの成功談や成功体験は極めて乏しいように感じる。少なくとも自分が所属する業界である証券投資・運用顧問業界はそうだ。30代〜40代の「オトナ」に殆ど成功体験がない。20代からすればセンパイ達の成功談が「空っぽ」というのは心許ないだろう。昔は、あんたが大将を地でいくような「オレがオレが」型が多かったが。成功体験のシュリンクと共に、センパイもシャビーになった。

人間にとって原体験とは、それがそっくりそのまま「モノの見方や考え方」のコアになってしまうくらいのインパクトを持つ。成功体験の不在は「がんばったって、できない」空気を醸成してきたように思える。70年代あたりから三無だの五無だの、若者の無気力について語られてきたが、いよいよ世代を問わず無気力化が進むような気がする。成功の体感は重要だ。そうでないとドーパミンが不足し、強化学習に繋がらない。

時代と広告

2012年7月15日付日経新聞朝刊の32面(文化面)で、コピーライターの仲畑貴志氏の記事が乗っていた。「時代と広告のまわり」との題名で広告の役割だけでなく、彼なりの世界観や人生観の書かれている(もっともこの「文化面」は、当該分野を「生涯の活動」、はたまた「人生そのもの」として取り組んだ方々による出稿なので、往々にして人生訓が入り込みやすいが)。印象的な部分を要約してみた。

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広告は商業活動の表現だからビジネスそのものである。同時に、商品作りとしてのファッションが生活文化となることを見れば、文化を形成する要因である。

企業と話し合うまではそのような処方が効果的であるかわからない。実際、内科的問題で依頼されたが、商品の機能や装備には問題は無く、むしろ、デザインに改良の余地があったりする。この場合は整形外科的な視点から仕事を始めることにする。

広告表現は
1.何を言うか(訴求ポイント)
と設定して
2.如何に言うか(表現手法)
へと進める。

1.何を言うか(訴求ポイント)について
訴求ポイントは1980年代を境にして変わった。「やすかろうわるかろう」「国産品愛用」といっていた時代は、品質が勝負だった。

ところが日常消費財の品質が均一化した。まずいビールはないし、その冷蔵庫もよく冷える。現在流通している商品の基本品質が微差になった。品質訴求の時代は「良いか悪いか」で選ばれてきたが、現代は「好きか嫌いか」で選ばれる。結果、ほとんどの広告が好きになってもらうためのイメージ訴求型となった。

2.如何に言うか(表現手法)について
コマーシャルの爛熟から、下心が見えてしまった。どんな技を見せようと「売りに来たのでしょ」とバレている。広告はウケても、商品は売れないという現象が見られ出した。広告を消費して、商品の購買に至らない視聴者の出現である。

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そこで、3.どこでいうか(接触の場)と、4.どう設計するか(仕組み作り)が重要になった。消費者の態度の変化に加えて、インターネットの拡充ゆえである。

例えば、大学が学生を集める場合、どこで訴えるか?マスメディアでは対顧単価が合わない。もっと本人に直接訴求できないか?より肉薄する接触方法の開発が必要ではないか?と発想して行く必要がうまれた。

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マーケティング
ターゲット
メディアミックス
ブランディング

なぜ広告屋はカタナカを多用するのだろう?

例えば、コンセプト。
会議で幾度と無く発せられるこの言葉の意味(ニュアンス)は実にあいまいである。まさか「概念」ではないだろう(辞書編纂ではあるまい)。

人によってコンセプトとは何か?に対する見解はさまざま。
「商品の価値の発見」
「広告の中心となるアイデア
「商品と人、商品と生活にまたがる橋のようなもの」
「ある商品の価値を、消費者の手に届けやすくするトンチ」
など。

わたしは「効率よく売るための工夫」と捉えている。が、いずれにしてもこれだけ意図の定まらない言葉は使わない方がよい。共通同一の語意を持たなければ、精妙な会議は成立しない。

仕事はすべて英語でという企業があるが、行き過ぎではないか?

言語より内容、無論、内容も言語も豊穣であれば言うことはない。しかし、よき研究開発者が、すべて英語上手ではない。英会話力と頭の良さは一致しないから、英語力を理由に優れた人を逃す損失は大きい。マンハッタンのバーワリーあたりのジャンキーでも英語は流暢だ。

なお、言語は文化だから、他の国の消費者に訴求するコピーは、むずかしい。国ごとの、今を生きる人々の心を奪うには、その歴史や文化に根ざした価値観、思いや想いを深く呼吸していなければ、こさえにくい。

また、広告は「効率を至上とする表現」である。投資効率からして、異なった文化を越えての訴求には無理がある。単純に、巌流島に材をとったコマーシャルに欧米の人が深くうなずくだろうか?

「広告の投資効率」を求めるとなると、世にあまたある「広告費」は参考程度にしかならない。現在の広告効果測定法では、長く投下した広告が上位となる。重要なのは「表現効果係数(クリエイティブ係数)」である。

消費者に到達し、心を奪った量を、広告投下量で割る。投資単価当たりの効果が明らかになれば、あらゆる広告費の意味が変わるだろう。そして、またクリエイティブ係数の高い広告表現を見れば、その国の生活文化の程度や未来への願望もおのずと理解できる。



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なるほどと思う箇所がたくさんあった。
製品の「良し悪し」から「好き嫌い」へ、というのも、言われ始めてから既に久しい(30年くらいか)。感じるのは既存メディアを通じた広告の訴求力は格段に衰えたなあ、ということだ。自分などは広告に対し、「押し売り」のイメージを通り越して「だまし・詐欺」のイメージすら覚える。

ある財や材を用いた「有効活用術」といったレシピや必勝法や、利用者のレビューや統計などが意味を持つのだろう。

「餅は餅屋」ということか

2012年7月8日付けの日経新聞13面「日曜に考える」の欄で、フェノウエイブインベストメント社長の若林氏のインタビュー記事が載っていた。言わずと知れた「エレクトロニクス産業の重鎮アナリスト」であり、日経のアナリストランキングでも1位を取ったことのある大物だ。

彼の「発言」とされる引用箇所からいくつか印象に残った意見をひとってみよう。

「テレビに限らず各種の家電やIT(情報技術)端末市場を観察していると、世界市場が数千万台規模の間は日本勢が健闘するが、一億台を突破(同時に価格が500ドルを切る)すると、途端に競争力が低下するという法則のようなものがある」

「携帯電話やパソコンでも市場規模が小さかった1980年代や90年代は世界で一定の存在感があったが今は厳しい。薄型テレビも年間5000万台くらいまでは日本が強かったが、いまは2億台を突破している。市場の規模に反比例して日本企業は強みを失ってしまう」

「日本は『自前の工場で作る』というものづくり信仰が強すぎて、外部化の流れに乗り遅れた」

「韓国のサムスン電子との大きな違いは事業のスピード感だ。」「パソコンでもテレビでも機器の台数拡大は製品サイクルの短期化と連動して起きる。組織にスピード感がないと対応できないが日本企業は意思決定が遅い。」

「企業には固有の時間軸や規模感があり、それから大きく外れた事業に手を出しても無残に失敗するだけだ。」

ソニーなどがスマホに力を入れるというが、私にとっては耳を疑うような方針だ。スマホ事業は買い替えサイクルが2年以下と、テレビ以上にスピード感が必要。テレビで失敗したのにアップルやサムスン相手にスマホで成功すると考える理由がわからない。」

「一方で日本企業の体質にぴたりと合致する分野もある。例えば、エアコンなどの白物家電はそれほど市場規模は大きくなく、製品サイクルも長い。」

日立製作所三菱電機が復活したのも、鉄道や重電、産業機械といったゆったりとしたリズムの事業に回帰したからだ。面白いことに、テレビなどではあれだけ強いサムスンも、複写機や携帯電話の基地局といった台数規模がそれほど大きくなく、5年以上のサイクルの業務用危機の市場ではパットしない。彼らの苦手な分野に日本企業の活路がある」

「単に競合プレーヤーを減らすという従来型の再編ではだめだ。半導体DRAMエルピーダメモリー1社に集約されたがうまくいかなかった」

「むしろ期待したいのは、業界の枠を超えた越境型の再編だ。」

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なるほど、もちはもちやということかな。

「グーグル検索に潜む牙」(2012年4月29日日経12面記事より)

2012年4月29日付日経新聞の12面「日曜に考える」の欄で、ちょっと考えされられる記事があった。記事の内容はこうだ

「会社から退職勧奨されたAさん。会社に理由を求めると、あなたとの犯罪行為の関わりが書かれたウェブサイトが存在しているとの回答。Aさんは否定したが、会社の態度は変わらないので転職を決意した。しかし、転職活動中もネット上の書き込みが原因で内定が取り消されたりする。実際、グーグル上でAさんの実名で検索すると犯罪を連想させる言葉が実名と共に勝手に候補語として並んで表記された。それらをクリックするとAさんを中傷するサイトに行き着く。そして“Aさんが犯罪者であるような印象を与えるとのこと”(採用担当者の談)だった」

「調査会社の調べで1万件以上の中傷サイトが存在したことが判明。Aさんらが事実無根の内容を記載しているウェブ・サイトに勝手に到達する原因を探ると、「グーグル・サジェスト」と呼ぶ検索機能が関与していることを突き止めた。」

「Aさんはグーグルに削除を要請したが応じて貰えず、2011年10月、グーグルの米国本社を相手取り。表示指し止めを求める仮処分を東京地裁に申し立てた。」

「2012年3月19日、東京地裁はAさんの申し立てに対して仮処分決定を出し、“Aさんの名前と組み合わせて犯罪を連想させるキーワードを表示することをやめよ」とグーグルに命じた。」

「グーグル側は、“サジェストの結果は機械的なもので恣意的な要素は入らない”と主張したが、裁判所は特別な処置を取るように指示したことになる。しかし、4月下旬になってもグーグルは停止の措置を講じていない」

大まかな経緯は以上である。ネット上での中傷問題でややこしいのは被害者(ここではAさん)と加害者(書き込んだ人物、X氏とでも呼ぶことにする)が直接やりあうのではなく、グーグルなどネット情報の「流通業者」が事実上の当事者になるということだろう。

この場合、グーグルは恣意を排除した「アルゴリズム」を盾に防戦しているようだが、多くのネット上の情報流通業者は別に自分が書き込んだわけではないので「知らぬ顔の半兵衛」といった態度を貫き通す。この「白を切る」姿勢のせいで、ネット情報関連業がいつまでも半人前扱いで「遊びの延長」という目でしか見られない根源だと思われる。「業(なりわい)」としての「流通」には、情報のトレーサビリティといった「流通」なりの見識が必要なはずだ。しかし、ネット上の情報流通業にはそれが不在だ。長い目でみて損だろう。

また、グーグルの「恣意性の排除」という指摘も疑わしい。いかなる数学的アルゴリズムや解析モデルも考えたのは人間であり、その開発段階では大いに人間の恣意的判断が必ず入る。

どんな変数を用いて、どんな処理をして、どんな公式に基づいて、どんな結果を表示するかといったプロシージャーを考えるのは人間の仕事であり、その際の意思決定には、むしろ恣意性こそが物を言うはずだ(私の仕事もそれ似ている部分がある。それゆえ、モデルの開発は「えいや!」の世界に間違いないと断言できる。)。純粋無恣意発生的に出てくるわけがない。そのあたりをグーグルはどう考えているのだろう。
その上、グーグルの検索エンジンにおんぶに抱っこの各種検索サイトなども「一蓮托生」だ。

テキストマイニングといった自然言語処理プロセスがキーなのだろうが、ネガティブ・ワードのディクショナリー(ブラック・ディクショナリー)でも作成して、それと参照をさせながら検索実行をかけて根拠薄弱な個人の中傷文を掲載しないようにする工夫は直ぐにでもできそうな気がする。

低ボラティリティ環境で資産残高が高水準=ブラックスワン

一般に、金融市場でのボラティリティが低いと当該資産の残高を積み上げ安くなるので、高収益を狙って「レバレッジ」を賭けやすくなる。特に長期にトレンドが形成されていて、安心感のあるストーリーやシナリオ(当局や国がなんとかくれるといったこと)があると主観確率は一層低下する。これはそのシナリオやストーリーが神話化するまで続く。

反対に、ボラティリティが高いと予め「リスクが高い」と見なされて、長期のレバレッジが賭け難い。但し、短期的には「利抜け」できる可能性が高いので、例えば仕手株などはボラティリティが高まると目先筋の参加者が集まってくる。文字通り「利抜けカード」をひくか「まぬけカード」をひくかという「短期ジジ抜きゲーム」だ。

前者の場合、レバレッジとしてオプションが利用される。好金利通貨ファンドなどでは利回りを高めるために、プットをうったりした。残高水準の上昇とプットの売りの上昇が共に起きたのだ。こうした、やりすぎは後々のブラックスワンになる。昨年の9月のブラジル・レアルの暴落ではないが、「低ボラティリティ+残高+プットオプションの売り」というのは何かの予兆を表現くれるかもしれない。

後者のような短期ジジ抜きゲームはどうか?「新規の空売りを締め出すための逆日歩」、「材料」、「低水準の売買代金」、あたりがシグナルになるのだろうか。

宝くじ1等賞金7億5千万円に 上限を250万倍に引き上げ

記事によれば「総務省は21日、低迷する宝くじの売り上げ回復に向け、くじ1枚当たりの金額の100万倍までと定められている1等賞金の上限を250万倍に引き上げる方針を決めた。一般的な1枚300円のくじでは、上限が3億円から7億5千万円にアップし、前後賞も合わせればさらに高額な賞金が実現する可能性もある。引き上げは平成11年以来。」とのこと。

賞金の総額には変化がないのであれば宝くじの一枚辺りの期待リターンの値には何のインパクトもないのは明確である。

「射幸心ビジネス」というべきこの手の商売では、「大穴の額」や「ジャストス・スポット」に多額化させることで需要を喚起できることを知っている。射幸心をあおることで売り上げに繋がるのだろうが、これも一種の脳バイアスに思える。