数学バカと数学オンチの不毛な会話

私は理系であり、ホンの学部卒ながら専攻学科は数学科である。数学科というところは修士や博士課程進む人間が過半である世界なので、学部卒止まりというのは「数学の学術業界」で言えば、差し詰め「高卒」に換算されると思う。したがって、私自身にはそれほど数学バカや数学オタクの自覚はない、なぜなら「上には上」が沢山いるからである。

但し、世間的には十分に数学バカの部類に入るだろう。社会人になって転職も含めて長くやってきたが、逆に世の中の数学オンチぶりにはすごいものがあると感じる。数学を用いた説明だとかえってギクシャクしてしまうこともしばしばだ。ひとはよくわからない説明をされるとストレスを感じるからだ。

数学が受け入れられていないなあを感じる理由は、「使わない能力は発達しない」し、そもそも「必要のない能力は使われない」ことを考えた場合に、数学そのものが実際それほど必要ではないゆえ熱心に使われず、その結果数学オンチも治しがたいのだろうという結論にたどり着く。

しばしばビジネスなどで「数学的な考え方」や「数学的なものの見方」が重宝されることはある。しかしそれも、「生身の数学そのもの」ではなくて飽くまで「数学的」という「食べやすく調理された数学」「風合いとして数学風にアレンジする」といった程度であり、そこでは数学をガチに理解する必然性はあまりない。

そうした風潮の中で、数学オタクと数学オンチが会話をすると非常に不毛なものになる。そもそも、数学オタクは学部、修士、博士と学歴が進むにつれて「悪しき一点豪華主義」の病気が進行するため、言っていることがマニアックになり、「他人がなぜそれをわからないのか」ということがわからなくなる。例えば、おばちゃんが買い物の足として車を買おう店頭に現れてアドバイスを求めたときに、マニアックなエンジニア出身の担当者が「エンジンスペックを熱く語る」ような状況を想像してみて欲しい。おばちゃんは機械のことなどさっぱりなのだが、エンジニアはそここそがコアだから「他人もそこがコアだろう」と考えてしまって、機械の話に終始してしまう。でも、こうなると売れるものも売れなくなる可能性大であり、ビジネス的には明らかに失敗だ。

数学オタクはそこが「大事なコア」であるならば、その世界から出てくるべきではないのだ。世間もそれを大事なコアだとは思ってくれるわけがない。その辺りの想像力に乏しいのが数学オタクだ。

他方、数学オンチのひとは数学にコンプレックスがあり、そもそも毛嫌いしているきらいがある。毛嫌いを少々治していかないと数学的な考え方もなにも身に付くことはなかろう。

そう考えると、数学オタク、数学オンチの双方に過失ポイントがある。数学オタクに詳しい説明を求めると前提条件や前提式といった数学メカニカルな深堀を始めるだろうなあと容易に想像が付く。例えば、ある数学モデルを用いて計算された結果について、社会的な意味や経済的な解釈を求めても「こういう計算式に則してこう算出したのだ!」ということを数学オタクはループして話すだけだろう。彼らの世界では「数式的に解けること」が「わかること」であるので、式の展開や命題の証明に心血を注ぐ。それが、説明スタイルの唯一であり、物事へのアプローチに対する根幹・原点・中核なのだ。その分だけ周辺視野が狭いのだが、そんな人間が社会に出ると真に困ったことになり、社会は大いにもてあます。

そのため、数学オタクと数学オンチの不毛な会話が延々と繰り返されるのであろう。

吉野家シンドローム

牛丼最大手、吉野家が苦戦している。「値下げキャンペーン」も頻発気味ゆえ、もう効かなくなってきた。そもそも牛鍋丼なる“牛丼そっくりさん商品”を280円という低価格で常に販売しているのだから、たまに380円の牛丼を同じ価格まで値下げしても意味がなさそうだ。

吉野家の長期低迷(に結果的になってしまったが)のきっかけはBSE(当時は狂牛病と称していたが)による米国産牛肉の輸入停止措置だ。吉野家は米国産牛肉を使用しており、味の連続性を維持するためには豪州産に切り替えたのでは不可能であると判断し、牛丼の販売をやむなく停止した。結局、他のライバルの牛丼屋よりも牛丼単品依存度の高い吉野家は苦境に陥る(豚丼など代替メニューは提供するものの・・)。しかしながら、飽くまでこれは「一時的」な現象であり、米国産牛肉の輸入再開に伴って吉野家は普通の状態に「復活する」はずだったのだが・・・。

さて、ここからは私の仮説だ。吉野家が牛丼を販売しない間でも、「牛丼が食べたい人」はいるし、牛丼を食べるとしたら「吉野家でしか食べない人」もいるだろう。当時、「吉野家でしか食べない人」が「牛丼を食べたい」と思ったら、どうするか?仕方がないので、他の牛丼屋に行くしかない。吉野家は創業100年以上の歴史ある最大手であるが、他の二社は「模倣で後発」であるから、なんちゃってな感じがするけど、行ってみるか。てな具合で、お客がライバル牛丼屋に行ったところ、案外「あり」かなと思ってしまう。何度も行けば味にも慣れてこよう。その結果、両者に価格の差以上の価値の差はないと判定されてしまう・・・。そうなると、もうお客は戻ってこない。

吉野家には不幸にも以上のようなことが起きてしまっていて、未だに取り返せないでいるのではなかろうか?これを吉野家シンドロームと呼ぶことにすると、極めた似た状態にある産業がある。「自動車」である。

東日本大震災の影響で日本車の生産と出荷がストップしたが、これぞ「牛丼の販売をやむなく停止した吉野家」に酷似する。それでも、自動車を買いたい人は韓国車などに流れたそうだ(販売シェアの変動もそれを如実に物語る)。日韓で価格差は、同クラスの車同士で50万円から100万円あるらしい。でも、ここで「両者に価格の差以上の価値の差はない」と判定されてしまったら日本の車メーカーは、吉野家のようになってしまう。

対処法を間違えたり、甘く見ていると吉野家シンドロームによる長期低迷が待っている。案外、危ない状態にいるのかもしれない。

思考停止を喚起するフレーズ

2011年も残すところ僅かだが、思いついたテーマに沿って、いくつかまとめてみたい。今回は「思考停止を喚起する決まり文句」だ。

「格言」であれ「ことわざ」であれ、とても良いこと・大事なことを表現しているのだが、あちこりで多用されたり何度も繰り返し使われるとかえって耳障りになることがある。「耳にタコができる」も何度も聞けば「耳がタコになる」ということだ。

例を挙げると、中学時代の教頭先生はひとつおぼえが如く「鉄は熱いうちに打て」の話を持ち出していた。当時、その通りだし異論もなかったがだんだんと食傷気味になったのを覚えている(でも私がいまも覚えているのだから教頭先生の作戦勝ちかもしれない)。こうした陳腐化や劣化現象も含めて、「思考停止文句」を勘案してみたい。

思考停止文句はことわざや格言ほどではないが、社会通念上ありがちな局面で、その打開や解決の後押しフレーズとして登場するが、少々ベタな上、こいつ「自分の脳ミソを使っていないなあ」というニュアンスがにじみ出てくるものだ。演習過多で実戦経験少な目の頭でっかちなエリート・インテリ層(演習を実践と履き違えている)とか、半可通が好んで使う傾向がある。さて見ていこう。

「何もないよりまし」「何もしないよりまし」(英語でBetter Than Nothing)

これは「脳ミソの不使用感」が実によく出ている。"Nothing"をベンチマークにするのは如何なものか。モノゴトには「リスク(不確実性)」やら「機会コスト(得べかりし利益)」とかいろいろ勘案するべきものがあるはず。でもそういうものに対する一切の思考を停止させるフレーズだ。

「人間、ひとりではなにもできない」

一見すると「和」とか「絆」を想起させる良い言葉のよう。が、しかし、どうだろう。「自らを弁(わきま)えている」ようで、どこか「依頼心が透けてみえる」フレーズに感じる。表層的に殊勝な発言ほど見え透いた本心が隠れていることが多い。


他にもありそうなのだが、思いついたらアップする。

金正日(キムジョンイル)氏、死去

他にも触れている人が大勢いるだろう。でも本日、金正日(キムジョンイル)氏死去のニュースを受け取ったことを記載しておこう。69歳だそうだが、すごい長生きしたとは言いいがたいない年齢だ。国家を独裁し、勝手気ままが許されるのだから、衣食住には不自由しないし、国内に怖いものもなさそうだ、というのが私の勝手な勘ぐりだ。なので、ストレスもなくもっと長生きしそうなものだが、意外と短命だった。不摂生や道楽のためかもしれないが。

中国が「大企業」とするなら、日本や朝鮮半島の国家は「中小企業」だ。資源や国土に恵まれているとは到底言えない。北朝鮮も「小国」ゆえの様々なプレッシャーがあったのかもしれないが、同情する気はないし、独裁方式に賛成は出来ない。ただ、「中小企業の経営」のため彼なりに奔走したのかもしれないなあということだ。そうした心労が父親より短命の69歳没になったのか、と少し思う。

あの国家がどうなるのかは私には全然分からない。交渉カード作りのため、日本を含めた周辺国にあれこれちょっかいと出すのかもしれないし、体制疲労から内部崩壊するかもしれないし、外貨誘致を求めて開国するのかもしれない。いずれも「あり」だろう。

「幸福度指標作成」という道楽

「幸福度指標」で最終案=130項目、有効性検討へ―内閣府 というニュースが目に付いた。どうやらこの珍妙な「ハッピー指数」の作成は「新成長戦略の一環」として閣議決定事項らしい。他にもっと政権実務的にやるべきことがありそうなのだが・・・。しかも、出来上がった「ハッピー度合い」が一体何を意味し、どんな成長戦略を示唆するのかさっぱり分からんが、現時点では少なくとも「おバカ道楽」にしか見えん。こんな道楽に貴重な予算をつぎ込むことこそアンハッピーな仕儀となるだろうに。そもそもそんなことを指数にせず、従来のような「世論調査」ではだめなんですかねえ?公約で述べた財政削減もろくすっぽできずに、なしくずしてきに消費税上げられてしまう方が国民は不幸な気がする。

「プロ・シクリカル装置」としての時価会計と格付け依存とバーセルⅢ

IFRSとかバーゼルⅢといった国際的な視野での企業会計制度や金融資本規制に対する改革論が盛んだが、そうした議論の中で(特に資本規制で)たびたび潜在的且つ構造的な問題点として「プロ・シクリカル性」というのがある。

プロ・シクリカル(pro-cyclical)性とは、それとよく似た概念でスパイラル性というのがあるが、単純に言えば「変動幅とか振幅(ブレ)の増大化を内因的に持ち合わせている性質」、いわば自己増幅作用のことだ。

スパイラルとは直訳すれば「らせん」となるが、用例として「デフレ・スパイラル」がある。これは「物価の下落(デフレ)」が企業収益を圧迫し、賃金低下や失業率上昇を加速させ、その結果「消費が低迷する」ことで、更に「デフレ」を助長させると言う現象である。つまり、起きた結果がその原因に転化することで、循環参照的なループが生じてしまって「泥沼化」若しくは「アリ地獄化」する様子がスパイラルだ。そうなると、ちょうど動輪がぬかるみにはまってしまった自動車のように自立的な脱出が困難になる。

プロ・シクリカルはスパイラルに比べて自己反復作用(ループ)的なニュアンスがない分やや軽度なイメージだ。

さて、ここからプロ・シクリカルについてである。

金融機関の場合、資本規制によって、貸出残高に比して内部留保資本を「バッファー(貸し倒れに備えるクッション)」として準備していないといけない。その「準備率」をいくらにするべきなのかについて議論しているのがバーゼルⅢだ。リーマンショック後、金融では綱紀粛正の機運の台頭から、準備率を高めようとする向きがある。まずこれを念頭におこう。

一般論として、景気が良いときは各種資産の「流動性(換金性)」に問題は生じないし、「準備率が一定」でも「資産価格の上昇」のおかげで、金融機関の貸出余力は増す。金融機関の貸出余力が増せば、世の中の信用(クレジット)は増し、レバレッジも上昇する。他方、景気が悪いときは資産の「流動性(換金性)」に難が出るので、それに見合って「資産価格は下落」することになる。それに伴って金融機関の貸出余力は低下するが、一応「資本バッファー」があるので、通常の景気振幅内であればクレジット・クランチ(信用危機)起きない。

が、今回のように流動性が枯渇し、資産価格が著しく低下してしまうと、資本バッファーが枯渇すると、本来なら金融システムやインフラの提供者であり同時に流動性の供給者である銀行が「流動性の需要者」に変じてしまって危機になる。

その際、金融商品時価会計という制度が「第一義のプロ・シクリカル性」を発揮する。あらゆる「時価」が下がることで資産サイド並びに資本サイドが両方が毀損され、更なる危機を生むからだ。例えば、保有している債権や国債の価値が下がれば、減損しなくてはいけない。他方、資本の方も同時に毀損若しくは調達困難な状況に直面していればダブルパンチだ。

そうすると、時価会計には「投資家に対する適切な情報開示」と言う点で見れば良い点もある反面、プロ・シクリカル性という副作用もあるとうことになる。

更に、「格付け」が「第ニ義のプロ・シクリカル性」を高める。景気が悪化して実体経済の活動が弱まれば、当然、企業の収益力は低下する。デフォルトとは「貸した金が約束どおり返ってこない」ことゆえ、不景気のときは当然そのリスクは高まる。それは別に敢えて格付け機関なる外部第三者に言われるまでもない。でも、彼らが声高に「格下げ」を表明することでセンチメントは益々悪化する。そうすると各方面でリスクポジションの手仕舞いといった萎縮が起きる。いわゆる「リスク・オフ」の状態だ。こうして、格付け機関による格下げもプロ・シクリカル性の増幅装置足りうる。

もっとも、お手盛りを避け客観的なロジックに基づいた意見というのは大事なのだが、格付け機関の意見がそれに相当するのかどうかについて近年疑わしさが増した。それは、格付け機関の利益排反性だ。格付けの対象者から「金品」ならぬ格付け報酬を受け取って、格付けという「お墨付き」を与えるビジネスモデルである以上、どうしてもバイアスがかかるのではないかと言う点で排反性がある。

テレビなどメディアでも、スポンサー企業の不祥事やキャンダルを大々的にニュースで取り上げるのをためらうように、スポンサーのご機嫌を損ねるようなまねは格付け機関も避けるだろう。

ということを考えると、格付け機関のご意見は中立性という点でも甚だ疑問が残るのだが、市場参加者の視聴習慣に深く刻み込まれてしまっているせいか、隠然たるチカラが残っている。8月の「米国の格下げ」は大騒動と化した。また、欧州金融化基金(EFSF)の発行する債券の後ろ盾はドイツやフランスなど「最上位格付け国の保証」ということであり、ここでも「最上位格付け」ということで「一介の民間格付け会社の意見」が制度上の担保になってしまっている。こんなでよいのか?という気がするが、事実上格付けが「制度上のプロ・シクリカル性」を握っているのだ。

最後に、バーゼルⅢで議論されている中核自己資本(コアTier1)の拡充である。これは、冒頭で記した準備資本(バッファー)強化の話だ。ずばり、これは金融機関の貸し渋り貸し剥がしという実力行使を通じてプロ・シクリカルに機能しよう。これが「第三義のプロ・シクリカル性」である。

準備率を上げることは即刻、金融機関のレバレッジ比率を下げさせる効果があり、不景気時これを実行すると金融機関による融資の厳格化を招きやすい。その結果、企業の不況型倒産が増えてしまって、ますます不良債権が増える。不良債権が増えれば金融機関はますます予貸レバレッジを下げ、貸出審査の厳格化し、すると倒産が増え・・・というようにスパイラル化しやすい。

したがって、不況下ではむしろ準備率を下げる方が「カウンター・シクリカル性」(増幅を抑制する内生的性質)が高まり全体最適性がアップするのではという意見もある。ちょうど、振り子のように釣り合いの位置である中心(均衡)から乖離すれば、元の中心(均衡)に戻ろうとするチカラが自然と働くといった具合にである。これによって安定的な釣り合いが保てるということだ。

一方、不景気時に自己資本比率内部留保準備率を上げると「金融機関の資本バッファーを上げる」という部分最適は一時的に達成されるが、その後の反作用(不良債権増加)が強化したバッファーを帳消しにしてしまって、結局元の木阿弥と化す恐れがある。所謂「いたちごっこ」となるので経済的な釣り合いを保ち、安定化を図りにくい可能性がある。

サーカスでピエロがボールの上に乗っかってバランスを取る動作を想像して欲しい。この場合、釣り合いの位置(均衡)から少しでも外れると、ますますそこから外れようとするチカラが自然と働く。したがって、常にバランスするためには外部からの意図的な作用が必要であり、常に緊張に晒される。こうした均衡では安定は永遠に望めない。景気時に自己資本比率内部留保準備率を上げれば、こうした「サーカス・ピエロ」な状態になるのではないかということだ。

それにも関わらずバーゼルⅢで自己資本規制を強化しようとするのはなぜか。それはどうやらテールリスクに対する備えのためらしい。テールリスクとは「滅多に起きないが、起きた場合、死活的ダメージを被る」ようなリスクのことだ。リーマンショックのときに、グリーンスパンFRB理事長が「百年に一度の危機」と発言したのは記憶に新しい。そうした百年に一度のレベルに対して備えたいということのようなのだ。

しかしながら、自己資本比率内部留保準備率を上げるといっても、5%だの10%だのといったレベルの話である。例えば、テールリスクを未然に防ぐといった予防的な効果ならまだしも、統計確率的に極めて小さいはずの死活リスクが顕在化したような局面で「高々数%のオーダー」の資本バッファーで予後がカバーできる訳がない。つまり、テールリスクの備えとした見た場合、自己資本比率規制は何の役に立たないのだ。

むしろ、目的(アンチ・テールリスク)と手段(自己資本比率規制)とがずれている感がある中で、プロ・シクリカル性による被害ばかりを増幅させているように見える。

このように欧州では
1.時価会計
2.格付け
3.資本規制
という3つの複合的プロ・シクリカル的な圧迫を被っており、スパイラルの入り口にいるように思える。

「大卒男子初任給 最高と最低で5万円以上の差」とれまがニュースより

「とれまがニュース」という耳慣れないサイトにあった記事だ。
記事元はこちら
http://news.toremaga.com/politics/country/366316.html

一部転載すると
厚生労働省の平成23年賃金構造基本調査で大学卒業者の初任給は男子が20万5000円、女子が19万7900円となり、ともに前年より2.3%増えたことが分かった。一方、高卒では男女ともに前年より低くなっていた。

 また、初任給が最も高い「学術研究、専門・技術サービス業」の男子大卒(24万8300円)と最も低い「医療・福祉」の大卒男子(19万2200円)との間で5万6100円もの差が生じていた。医療、福祉産業分野は大卒男子平均初任給からみても9800円低く、高齢社会の中にあって医療、福祉産業が担う役割が大きいだけに賃金面でも他の産業に比べて新卒者にとって魅力のある業界に育てていく必要があり「仕事がきつい割に給料が低い」といわれる課題を改めて浮き彫りにしている。」

とあった。

わずか5万円の差とはいえ、「学術研究、専門・技術サービス業」の給与が高く、「医療・福祉」が低いそうだ(いずれも大卒男子平均で比較)。「平均」なので例外もあると思われるし、そもそも平均値はサンプルが少なかったり、一部の異常値が存在したりすることで上ブレしたり下ブレしたりする。例えば、ビルゲイツのような大資産家の息子が通う学校の「親の平均年収額」はとんでもない数字になるだろう。なので、平均値にはバイアスがかかりやすいという点に留意したい。

したがって、平均値の差が実体の差そのまま表していると限らないが、上述の「学術研究、専門・技術サービス業」と「医療・福祉」の5万円の違いが有意なものだとしよう。

まず「学術研究、専門・技術サービス業」というのが具体的などんな職種なのかずばりと分かりにくいが、言葉のニュアンスから察するに「何らかの研究開発に関わるシゴト」なのだとう。「医療・福祉」と言えば「普通の病院勤務から介護といった職務」が連想される。両者の賃金差異は、一体どこから来るのだろうか。

まず第一に「稼ぎ元のソース」だろう。「研究開発」のソースは企業などでは稼いだ「利益」だ。他方、「医療・介護」のソースは患者から徴収する診療費も含まれるが多くは健康保険などの「バジェット(予算)」であろう。稼ぎにリンクしているか、予算にリンクしているかという違いが想定される。予算よりも稼ぎ(利益)の方がアップサイドのポテンシャルは大きい。初任給は「そうしたポテンシャルの違いを反映して決まっている」ということも考えられよう。

第二に、研究開発費も医療費もお金を「支出する」という視点からすれば同じ行為なのだが、その質的な意味合いが異なってくる。研究開発費の場合、将来の成長乃至は発展のためという意味合いから、会計上の処理などでも「資産計上」されることがあるように、「潜在将来性」や「潜在資産性」があると見なされる(これも一種のポテンシャルだ)。「将来の資産のために今現在犠牲になるもの」というカラーがあるので、「単なるコスト」というより「資本投資」のように扱われるのだ。

他方で、医療費の場合は「コスト」として扱われるケースが多い。企業でも従業員の健康診断費用は「人件費」だ。これを「人的資本に対する投資」とでも見なしてくれればよいのだが、現状ではコストでしかない。

こうした「投資かコストか」という扱われ方の差が5万円の差に繋がっている気がするのである。医療は衣食住や光熱費と並んで事実上の生活必需品目だと思われるのだが、一般論として残念なことに生活必需品に近づけば近づくほど、どんどん「費用」のような扱われ方をするのも事実だ。身の回りのものを見ても、「ぜいたく品」だったものが「必需品化」にすることで価格も下がる(逆に、価格が下がるから必需品化するのかもしれないが)そして費用のようなものは不景気時において常に削減の対象として扱われる。

他方、設備投資のようなものは不景気時でも何とかそれ確保しようと努力する。それはまさに経済活動において「種籾」のようなものだからだ。5万円の差というのは「種籾までも食べてしてしまうと、後々本当に困った事態になる」ということを広く世の中が理解している。

もっとも、研究開発などの投資行為の場合、「蒔いた種が必ず生える」とも限らないので、それはそれでリスクを伴う行為なのだが、それでも止めるわけにはいかないのが研究開発なのである。

このような背景の違いは将来変わりうるかもしれないが、それには医療費が研究開発等と同様にポテンシャルのある投資行為として見なされる必要性があると思われる。