エリート意識とアスリート根性

今日(2011年7月14日)の日経新聞40面の「交遊抄」に瀬古利彦氏が登場していました。瀬古氏は1980年代を代表するマラソン選手であり、私にはライバルのイカンガー選手との競り合いが記憶に残っています。

1984年にはロサンゼルス五輪があり、陸上は史上初四冠達成のカールルイス選手や金メダル期待大のマラソン瀬古選手、宗兄弟などが話題となりました。また、ファミコンでは「ハイパーオリンピック」なるゲーム出て大人気でした。

オリンピックでの瀬古選手は体調不良もあってメダルには程遠く、確か10位台(確か14位)と大きく低迷。それまでマラソンの国際大会に出れば優勝であり、「無敵」と思っていただけに残念を通り越して、驚きを覚えたことを記憶しています。

それから4年後の1988年に開催されたソウル五輪でも瀬古選手は参加するものの、往年の力は既に残っておらず9位に終わりました。代わって当時新進気鋭の中山竹通選手が4位に入りました。

瀬古選手のマラソン通算成績は15戦10勝と他の選手を圧倒していることから分かるように、もうこんなすごい選手は二度と出ないんじゃないかと思うくらいでした。国民的人気も高く、中学のときの日体大出の体育の若い先生もことあるごとに瀬古選手を話題に出し、陶酔していようでした。

そんな中で、突如登場した“一体こいつどこの馬の骨だ?”が、中山竹通選手でした。ダイエーのゼッケンをつけて颯爽と現れました。当時、大ファンとは言わないまでも、一応「瀬古オシ」の自分としては中山氏の台頭がやや不愉快であり、(瀬古氏と対照的な)そのやくざれな言動も当時としては気に食わなかったことを覚えています。

ただ、印象の良し悪しは別にしてインパクトはありました。そして、いまとなってはそのインパクトだけが残っています。調べると陸上エリートの瀬古氏とはまるで正反対の競技人生だったようです。

中山氏は陸上の世界でいえば全くの非エリートです。陸上だけをやっていればよいという環境で過ごしたわけではありませんでした。なんと駅の清掃員をやりながら独自で練習を重ねて結果を出し、オリンピック出場まで上り詰めたのでした。これはこれですごい。

そのような経歴の中山氏ですから、おっしゃることにも含蓄があります。

引用すると、

「掃除用具を手に線路からホームを見上げていると様々な人生がかいまみえる。駅に集まる人たちはまさに自分勝手な集団だ。ごみをまき散らかし、けんかをし、酔っ払って寝てしまう。何がいつ起こるか皆目わからない。マニュアルなど役に立たない世界だ。その都度、臨機応変に対応するしかない。
実業団に入って感じたのは、エスカレーター式に育ってきた“エリート選手”たちはマニュアルの中に小さく納まっていることだった。長い間、手取り足取り教わってきたから自分自身の頭で考えなくなるのだろう。監督から練習メニューをもらっても自分で工夫する術(すべ)を知らない。」

つまり、エリートは
1.何事もマニュアル頼りで
2・逆にマニュアルが無いと何もできない
3.そのため「地頭(脳みその自力)」が弱い
そうです。なるほどね。

それに対して、中山氏は雑草魂、なにくそ魂の権化なのでしょう。それこぞまさに「アスリート根性」と言えるのでは? 

マニュアルなどが無い分だけ、自分の脳みそを使わざるを得ない。そうすると脳みその自力が増し、必然的に自分自身の中の「ひきだし」も増える、そして臨機応変に対応する力が身に付いていく。エリートには持ち合わせの無い部分ですね。

そう考えるとオリンピックでは、エリートよりも(真の意味での)アスリートが勝つ舞台なのかもしれません。エリートの瀬古選手はオリンピックという舞台で臨機応変に対応できず潰れ、劣悪な環境でも生命力を発揮する中山氏が入賞した、そんな気がしました。

エリートとアスリートってまるで水と油のようです。

なぜなら「エリート意識」っていう言葉はありますが「アスリート意識」って言葉はない。逆に、「アスリート根性」って言葉はありますが、「エリート根性」っていい方はない。

「エリート意識」といういやみな感じで鼻持ちならないものと「アスリート根性」という泥臭くてウザったい感じのするものと、あなたはどちらが好きですか?