作家と作家志望者とのやりとり

中学校の頃、通っていた塾の国語のテキストに次のような内容の文章が設問文として載っていました。尚、記憶を頼りにあらすじを記しただけなので細かい点で正確さを欠くかもしれません。

著名な小説家先生の許に小説家志望の学生が尋ねてきます。学生は将来作家になるための良いアドバイスを求め、熱心にその作家の先生に質問します。一方、肝心の先生ですが、学生さんからの質問に返答しつつもなんとなく違和感を感じつつ、会話が進みます。

例えば、学生から「先生は作家になるためにどんな勉強をなさったのですか?」と聞かれ、先生は表向きは回答しつつも心の中では“自分は作家になるための勉強なんてしてこなかったなあ・・・”と正直な感想を吐露するのです。

そして先生の「違和感の正体」がはっきりわかるのです。それは“この学生と私との間にある決定的な違いは、学生の場合「作家になることがそもそもの目的である」のに対して、私の場合「モノを書いているうちに結果として作家と呼ばれるようになってしまった」という点である。つまり、私と学生とでは「目的と結果」という主客が逆転しているということが違和感の正体なのである”というニュアンスで書かれていたと記憶しています。

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中学生当時、私はこの文章を読んで「含蓄あるなあ」と一種の感動を覚えたものです。では、なぜ感動したのか?「感動の正体」はなんだったのでしょう?当時はそれを言葉にできませんでしたが、今はなんとなく表現できます。

第一に、先生と学生とでは、その動機の構造を比較してみて、先生の方は「自然」な感じがする一方、学生の方は「不自然」な印象があるという点です。先生のような「自ら取り組んでいたことがそのまま職業になったというのは素晴らしい」と思ったのです。

第二に、学生の場合、不自然さに加えてどこか「甘さ」が感じられるという点です。「これとこれとこれをマスターすれば、君も明日から晴れて小説家になれる」という発想が根底にあるとしたら、その姿勢はかなり安易でしょう。プロの作家になることは、単位や卒業証書をもらうような具合にはいかんだろうと思ったのです。

第三に、「将来○○になる」と決めてしまって後から気が変わったらどうするんだろうと思ったのです。恐らく学生は現時点で入手可能な限られた情報や先行する良いイメージなどから決めたのでしょうが、モノゴトには裏があり負の側面も必ずあります。それらに直面したとき案外もろいのではないかと感じたのです。

いずれにせよ、自らの将来の指針を勘案する際の「原理訓」として今も私の中で機能している考え方です。世の中では、将来なりたいものがないと言う子供や若年層に対して叱咤し、無理にでも探させようとするおせっかいなオトナがいますが、私はそうしたトップダウンに対して強い違和感があります。なりたいものの具体像などをトップダウン式にはっきり持ってなくても人間誰しも好きなことはひとつふたつあるでしょう。それらをボトムアップに取り組んでいけば、自ずと道が開けるような気がするからです。

下手な「トップダウン・アプローチ」は人を枠にはめて、自由な想像を阻害するなど、「百害あって・・・」という気がするのです。